アンパンマンのはなし
昨日は一緒に卒業したバイト仲間と飲んできました。
終電まで、いろんな話をしました。
ワインは二本空きました。3人ですがぼくが飲んだ量はきっと4分の1ぐらいです。
そんななか、少しだけ昔仲良くしていた女の子の話になりました。
「あの時の自分はだめだったなー。」で終えていたんですが、というか蓋をしていたんですが、僕は本当の意味でそれを乗り越えてはきっといないのです。
というか、物事ってそういうものなのかも。どこかで「いいやっ!」折り合いをつけて進んでいくものなのかもしれません。
そして、それがいつのタイミングかは分からないけど、また、押し寄せてくるのです。
なんとなく、完全に偶然だけど、今はそれを自分の糧にする時な気がしたのです。
経験を糧にするか、封じ込めるか。どっちでも良いんだと思う。いつもいつもすべてに向き合うことはできないかもしれない。し、そんな必要ないと思う。でも、今の僕にはあえて自分の悲嘆に触れることが大事な気がしています。
多分、それは自分がずっと信じていたいと思っているものを確認させてくれるものになるはずだから。なんだか、そんな気がしているのです。
最近、過去は知るものではなく、解釈するものなのかも。とか思ったりします。
ただ、ぐるぐるメリーさんははげそうですw
そんななか、土曜日、メリーさん真っ最中の時僕の頭にはアンパンマンのマーチが流れてきました。
何が君の幸せ
何をして喜ぶ
解らないまま終わる
そんなのは嫌だ!
これを小学校、もしくは幼稚園生に尋ねるのはどうしてですか。
バイキンマンを愛と勇気がブッ飛ばすだけのアニメじゃないんですか。
なんでもアソパソマソの作者は「本当の正義とは何か?」を問いかけたくて、
アンパンマンを作ったみたいです。
ちなみに僕はバイキンマンの正義も好きです。
何度負けても間違ってもあらゆる手段を使って、頭を使ってひたすらにくだらないことを一生懸命にやり続ける。
最近思うことがあるのですが、結局それぞれの正義はそれぞれの正義なのです。でも、みんなの正義がぶつかって、わかりあうのがこの世の中なのです。そこには本当にいろんなプレイヤーがいるのです。
正義は立場によって変わる。みたいなことを青キジさんが言ってました。
自来也さんはそれぞれの正義と愛が生み出す「憎しみ」をこの世からどうにかしたいと言っていました。
竜馬がゆくを読んでみて、一人一人のストーリーが一人一人の正義の塊なのです。そして、そこにはいろんな正義があるんです。そして、そこに人は惹かれるのかもしれません。
そして、こんなまとめサイトがありました。
http://matome.naver.jp/odai/2133796388853385701
一方で自分自身の正義とは矛盾をはらんでいるものでもあると思います。
こんなことをぐるぐる思っていましたが、アンパンマンのうたは語りかけてくれます。
「そうだ うれしいんだ いきるよろこび たとえ むねのきずが いたんでも」
なんだか、今の僕にしっくりきたのです。この言葉。