コバルトブルーからの飛翔

とりとめのない現実について書いていくブログ

何をやるかも誰とやるかも大事だと思った。

 これで連続投稿は最後です。

 まったく、今日一杯書いたことをもっとうまくもとめろって話なんですが、へたくそですね。まったく読者思いじゃないとはこのことです。

 

 さて、最後のエントリーは物事の楽しみ方の深さと多面性について。

 

 GW中に野球を見に行ったんですが、僕は今まで少人数で行くときは応援しているチームの試合を、一緒に応援したり、相当な知識量を持っている人と行くことがほとんどでした。

 一回だけ夏合宿の班で野球をみましたが、それはそれで斬新でしたが、なんか、もっと斬新でした。

 

 一つアウト取るたびに、説明したり、ストライクボールから説明したり、たまには茶化してみたり、きっと本当に初めてだから見るもの全てが一見難しい野球は「?」となることでしょう。

 

 で、側に居る人としては、そういった反応一つ一つを楽しみにしていたりします。なんかすごく悪い言い方かもしれないけど投資が思わぬ形で返ってくる感覚です。でも、どうあっても人の感じ方という物は不思議で全然違います。一つの情報で左右されたりもしますw

 

 それは、今まで気付かなかったこと、なんとなく意味付けを怠っていたものに対して、興味をもってもらえたりすると、自分も無意識的に排除していたものに気付かされます。

 しかも、それがしっかりと向き合ったものであればあるほど、なんだかただ野球を見るだけじゃなくて、野球場という空間の新たな楽しみ方を見つけられたりします。

 

 これは接待ではなく、完全なる遊びなのです。

 それがすごく良かったんです。

 

 なんかうまくまとまんないけど、

 結構、今の世の中って目的思考というかそういうのが大事だと思うんですが

 

 「目的にまったく捉われずに、利害関係とかじゃなく楽しめる相手」

 

 というのは、とても尊いものなのかもしれないと思ったのでした。

 

 そんな時に次に出て来る言葉は

 

 「また野球見に行きたい!」

 

 と相手が言ってくれたらきっと幸せで、

 

 で、自分は

 

 「また、違う場所にも一緒に行ってみたい!」

 

 と思えたので凄く良かった気がしたのです。

 これは、ベスキャリの集まりもそうでした。

 

 「また、違う場所で同じように色んなことを共有しあいたい。」

 

 そういえば今、何をやるかより誰とやるかだという風潮の本が売れているそうですね。

 

 その通りだと思います。

 

 でも、一つだけ問題提起をすると、

 

 「誰」を判断するためには「何」かをやっている状態から判断しなきゃ行けないんじゃないかと。

 なので、こっちはどっちがいい!というわけじゃなく、何をやるかと、誰とやるかそれぞれにしっかりと意味付けすることが大事なんじゃないでしょうか。

 

 結局大事なのは「誰」なのか「何」なのか。どちらを答えにするのでしょうか?

 僕はどっちかの正義論をかざすことはしなくて良さそうですね。