コバルトブルーからの飛翔

とりとめのない現実について書いていくブログ

許すことと諦めること

 学生としての最後のエントリーになるのかな。

 今日は最近ちょっと感じている感覚についてです。

 それは許すことと、諦めること。どちらも終わった時の状態は大差ないかもしれないと思うんですよね。表面的には何もなくなるというか。その場で解決はしないけど、なんとなく終わりを迎える感じ。

 僕が思うに許すとは相手の背景をしっかり理解した上で、相手の意見を噛み砕いてあげられる状態だと思うのです。

 例えばAさんが何か主張した時に、すんなりとは受け入れられなかったとしても、そのAさんの特徴からAさんの背景まで想像して、それをAさんと確かめて、そのAさんの発言を肯定しつつ、とらわれから外してあげるような。もしくは、そのAさんの背景を知った上で補うような、そんな行動や姿勢がとれたらきっと許せてる。

 今回はAさんにフォーカスしたけど複数人の時に許されてる人が居たら議論はきっともっと前に進むし、そんな相手の囚われを知って、共有してあげることってすごく大事なことだと思う。それでこそ、より良い結論に向かえるんじゃないでしょうか。

 でもこの感覚って本当に最近知り始めたことで、全然実践できてない。実践してみたいなぁ。もしかしたらそういうのって会議とかでは実現できないのかもね。

 でも、職場でも相手を知ることに貪欲に。

 というよりは相手の発言の意図を読む意識を常にしていよう。

 自分には到底理解できないことでも、今は理解できなくても絶対にその姿勢が価値になると信じよう。

 

 反対に、諦めることは個人的には無関心になることなんじゃないかなぁと思うのです。でも、無関心になると意外と物事って進んでいくんですよね。表面上ある程度無関心になった方が物事は進んでいくのかなって。

 例えばAさんとBさんが議論をしていたとします。AさんとBさんが噛み合わないとします。でお互いに考えていることに対して無関心になればなんか問題が解決したような気がするんですね。だって一つの意見通せば物事は進むもの。でもお互いに理解しあうこともなく。

 

 ここの違いを知って、意識して社会人生活に向かってみようじゃないか。

 

 さようなら、僕の4年間。